戦後の高度成長期以来、日本の家庭には長いこと父親不在が続いてきた。望むと望まないにかかわらず父親は仕事一筋、家事や育児、子供のしつけや教育は完全に母親まかせの分業社会だ。日本での私の結婚生活もごたぶんにもれなかった。だからニュージーランドに移り住んでも子供たちにとってその生活はこれまで通りで、相変わらず母親を中心に続いていった。
しかしその母親が再婚した。そして子供たちにとってはいやもおうなく、その相手の男が移り住んできたのだ。当時、私たちは10エーカーの農場に母子住んでいたのだが、そこに義父になる男が移り住んできた。それはまさに青天の霹靂、私達母子にとって驚きと戸惑いの生活の始まりだった。
長い間、私を中心に回ってきた母系社会型の我が家に、早くに母親を亡くしたため父親に育てられ、子供の時から狩猟で鍛えられた父系社会型の男が入ってきたのだ。その上その男は体格も大きく力も強く何といっても存在感がある。3人の子供たちはおおいに戸惑ったが、特に拒否反応を示したのはその時12歳だった長男だった。
「あの人に家に帰って来て欲しくない」彼は訴えた。
それは良くも悪くも慣れ親しんだ母子環境の中で、ニュージーランドに来て以来自分が一家の男だと思っていた彼の必死の抵抗だった。
私はうろたえ、夫の仕事場に車を走らせた。事情を話し、
「今日は仕事場に泊まって」
というと、夫は静かにそして確固として言った。
「今からすぐに帰って、僕から彼に話そう」と。
家に着くと夫は静かに息子に話し始めた。
「君には日本のお父さんがいるから僕は君のお父さんにはなれないね。でも一緒に暮らして君のいい相談相手にはなれると思うな・・・」
夫は淡々と話し続けた。その口調は穏やかでも確固としていて逆らいがたく、すねていた息子もいつのまにか
「これは抵抗しても無駄だー」と思い始めたようだった。
それに対して、それまで私にべったりの甘えん坊で“ママっ子”だった8才の末息子の反応は少し違っていた。当時、彼は喘息体質で時々発作を起こしたが、そんな時は救急隊員の夫が母親とは違った的確さで処置してくれるので本能的に安心したようだった。
しかし15歳で、思春期に入っていた長女の内心は複雑だったと思う。
それまで一人ですべてをこなしている母親のそばで、その片腕となって私が忙しい時には弟達を取り仕切ってくれていた娘だが、その母親には自分に代わる誰かが必要と覚悟したのだろうか。
義父さんが家族に加わった時ちょうど思春期で、自分の問題で手一杯になってきていた彼女は学校のことや将来の方向、セックスやドラッグの話にいたるまで、それまで忙しい母親にはぶつけられなかった疑問を彼にぶつけて、時に何時間も話し込むようになっていった。
「やあ、最初は面食らったよ。ミルクやオシメを飛び越して突然、性教育からのスタートだったからなー」と義父さんは懐古する。
こんな風にして都会育ちの日本人母子とカントリー育ちのキーウィ-・ガイの一風変わったインスタント・ファミリーが誕生した。
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